8.別れ

2018年01月03日

件名:高村君 その三

日時:○○年8月12日

 少し熱が出て、返事を出せなかったの。心配かけてごめん。本当は、高村君が結婚したことを聞いてショックだったの(笑)。

 そうそう、夕べ、高村君のお母さんの夢を見たのよ。亡くなった父もいて、家族のように仲良く話している。ものすごくわかりやすい夢でしょう。もう少しで父に会えるってことかな。そういう世界があると信じるようにした。

 僕らが大学を卒業する1987年の3月、スキーツアーから帰った私は、土産をもって麻里のアパートに行った。麻里が「部屋で待っている」と言っていたからだ。

 ドアを叩くが、どうも人の気配がない。近くの公衆電話に行き麻里に電話をいれる。しかし「お客様のおかけになった電話番号は現在使われておりません」と機械的な声が響く。何度もドアを激しく叩いていると、隣に住んでいる老婆が出てきて「石川さんなら、一作日、引っ越していきましたよ」と言った。

 私は慌てて「麻里がいないんだ」と涼子に電話した。

「お父さんと一緒に金沢に帰ったの、手紙を書くと言ってたわ」と涼子は言った。

 私は麻里に捨てられたと思った。その後の私は、淋しさをまぎらせるように、適当につきあった女と適当に寝て、酒を浴びるほど飲んだ。麻里からの手紙は一年待ったが、結局、来なかった。医師になった私には沢山の金や人が集まるようになり、大学附属病院の生活に麻里との思い出は氷の溶けていくグラスのウィスキーのように、その存在は希釈された。私は違う世界を求め始めるようになった。麻里とつきあっていた時に経験した満足感や安堵は、どこを探しても見つからなかったからだ。

 研修医が終わった時、友人の紹介で山手育ちの社長令嬢と知り合った。つきあっている間に子どもが出来た。事情を説明したが結婚に母は猛反対した。家柄が合わなかったし、母は二回の精神科入院で人間関係に劣等感を持っていた。私が神奈川で婿養子のような生活になることも予想していたのだ。実際、その後の生活は母の言う通りになった。今でも、母を無視して結婚したことを後悔している自分がいる。しかし、生活や仕事に追われていれば忘れることができた。

 30年はあっという間に過ぎた。子どもが2人生まれ、その二人は妻の意向で私立の小中高に通い、横浜にローンでマンションを買った。30代と40代は土日に当直を入れ、私は学費とローンのためにがむしゃらに働いた。突き上げてくる罪の意識を贖うかのように、時折、突風のように吹き荒れる空しさを追い払うように、そんな時は、浴びるように飲むしかなかった。

 母と妻子は、母が死ぬまで、一度も会うことはなかった。何度か母を説得したが、その話の度に母は「やめておくれよ」と言った。私は母を傷つけることはできなかった。

 私は、母の前では、一生息子でいようと決心したのである。

 月に二回だけ一人で母の家に帰っていたが、年が経つにつれて母の足腰は弱った。押し車を使って買い物に行っていたが、それもできなくなった。

 私は単身で故郷の病院で働くことを決め、大学講師の立場を捨てて、母の傍で過ごすことにした。母を車に乗せて買い物に連れて行き、母の家に泊まり、母の手料理を食べ、週末になると横浜に帰り夫と父親に戻った。その母は、二年前に血液が造れない病気になって死んだ。

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