5.メール

2018年01月10日

件名:高村君 その一

日時:○○年8月2日

 涼子、昨日から、また痛みが出てきているの。あのことを思いたくないけれど、もう無理ね。悪魔がやってくるみたいに頭に浮かんでくる。怖い、とても怖い。でも、やめる。もっと体が痛くなりそうだし。緩和チームの精神科の先生はわりと話を聴いてくれるけど、どこか自分に合わないの。言っておきたい事があったら言って欲しいと言われたけど、そんなこと言われたら、逆に何も話せないよね。もう両親も亡くなったし、兄弟もいないし。気になるのは、私の患者達だけど。全員、子どもだしね。先生が何かしたいことありますかと言ってくれたので、パソコンでメールを書きたいと言ったら、あっさり許可してくれた。

 涼子、私ね、ずっと後悔してることがある。涼子は覚えている?高村君。彼、あんまり目立たない学生だったでしょ。私が付き合ってたことを知ってるのは、涼子だけだよね。涼子、高村君、今どうしているのか知ってる?彼、精神科医になったのかなあ。同窓会名簿じゃ何科をやっているかわからないし。


 一年の浪人生活を終えた私は、地元の国立大学を落ちて、神奈川にある私立大学医学部に進学した。開業医をしていた祖父が残した遺産の全てが私の学費に変わった。

 1979年、「いとしのエリー」がチャート一位の連続記録をつくった年に私と麻里は出会った。私たちは1980年代の前半の殆どを一緒に過ごしたことになる。日本がバブルに向かって走り、誰もが景気に酔っていた華やかな時代だ。

 当時の新設私立医大は、しばしば週刊誌ネタにされた。「新設私立医大の学生駐車場外車占有率と偏差値の相関」といった記事が週刊誌に掲載され、「某党党首の息子が無試験で入学できた」とか、「医学部予備校に入試問題が漏洩し、塾長が多額の金を教授に払った」だの、そういう話題には事欠かなかった。私の出た医学部もこうした医学部の一つだ。入学ガイダンスの父兄席に座る親たちは、いかにも金持ち開業医夫婦といった装いで、仕立ての良いスーツを着た父親や、流行のニュートラで若作りの母親ばかりであった。私の田舎に住む足の悪い母は入学式には来られなかった。親が一緒に来なかった学生は、私だけであった。

 医学部の女子学生は派手な子が多く、シャネルのバッグを持っている子もいた。男子学生は、都内のお嬢様大学と派手な合コンを行った。要領の良い学生は進級し、要領の悪い学生は留年を繰り返し、数人が毎年辞めた。

 私は私立大学医学部の雰囲気に馴染めなかった。同級生の話には車や海外旅行の話が多く、そういう世界を知らなかったからだ。田舎くさい自分の装いと、金のない生活が貧相に思え、文学部や工学部のある二駅先のアパートに隠れるように住んだ。

 母親から「一つくらい医学部のクラブに入らないと、友達ができないだろうがね」と言われ、一番地味な医科芸術部という仰々しい名前のクラブに入った。亡くなった祖父が絵を描いていて絵心が昔からあったからだ。その時、一緒に入部したのが石川麻里である。

 麻里の記憶は殆ど消えても、最初の印象は、はっきりと覚えている。白いワイシャツとブルーのスカート、紺のカーディガン、洋服には全く関心がないといった装いで、私は故郷の素朴な高校生を思い出した。

 私は自分と他の学生との違いを「劣等感」と名づけた。当時は、麻里も同じように体験していると勝手に思い込んでいた。

 今から思えば、その時にいた世界が特殊だったにすぎない。私には医学部に親しい友達はいなかったし、麻里が親しかったのは同郷の涼子だけだ。そして、私には父がいなくて、麻里には母がいなかった。私のアパートは傾き、隣には同棲している工学部の学生がいて、麻里が住むアパートは築30年を超え、隣には足の悪い老婦人が住んでいた。

 麻里は私の下宿に毎日のように泊まるようになった。私が彼女を誘ったのだ。私は女を知り、麻里は男を知った。隣の学生に声が漏れないように、Starshipの「愛は止まらない」を大きな音で流し、孤独を埋めるように私は麻里を求めた。愛とか恋とか、そんな一言で語れるものではない。生物が生きながらえるために空気や水が必要のように、私は麻里を求めた。

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