6. 80年代
麻里・・・・・・
80年代、学生時代につきあっていた麻里との思い出は、時折、蜃気楼のように現れることがあった。病院研修にやってきた小柄な女子学生を見た時とか、学会で金沢に行った時とか、麻里のことは意識には上がってくる。しかし、そこには生命の鼓動も温もりもない。あの頃の風景は靄のかかった海上に浮かんだ現実味のない景色になってしまった。麻里と別れた後の三十年の体験が、麻里との時代を水平線の遥か彼方に運んでしまった。
ボトル半分になったワイン、そして経済原則を突きつけてきた理事長。この二つが、無邪気で希望に燃えていた医学生時代に私を引き戻したのかもしれない。
無性に学生時代の曲が聴きたくなった。
「80年代の曲はないですか」と、私と同年代と思われるマスターに言うと「チャンネル変えますね」と言い、始めて笑顔になった。笑顔の顔には髭は似合っていた。ストリーミングチャンネルからDonna SummerのHot stuffが流れてきた。そういえば、Donna Summerもがんで死んだ。
酔いが深くなってきた。
Culture Club、Air Supply 、Hall & Oates、TOTO.といった、次々に出てくる80年代の曲と一緒に学生時代の風景が浮かんでくる。ヘッセの庭、ヘルメティク・サークルにオイスターバーが変わった。来るべきことを約束されていたかのように、80年代の景色や匂いや感覚までが、この店に運ばれてくる。砂浜、傾いたアパート、ペインティングオイルの匂い、流し台にある二つの歯ブラシ、そして、麻里の笑顔、麻里の声、麻里のぬくもり・・・・・・。
ジー、ジーとメールの着信を知らせる振動音がなった。涼子が転送した麻里のメールだと察しがついた。胸に痛みのような感覚が走る。それと一緒に、あの時代に抱えていた胸に穴が空くような、空虚という言葉では簡単に括ることが出来ない、辛い感情も蘇った。
グラスのワインを一気に飲む、そして涼子から転送された麻里のメールを読み始めた。