4. 電話
「何か追加しますか」と女店員が聞いてきたので、私は詩集に目を留めたまま、「野菜スティック」と言った。
「在りし日の詩」の頁になった時である。背広の内ポケットにあるスマホがブルブルと震えだした。理事長からの電話に違いなかった。詩の世界から、現実に引き戻される。
「電話なんだけどさ、ここで話していいですかね」と不快な気持ちを声に載せて、女店員に言う。女店員がマスターの方を見る。マスターはグラスを磨きながら「誰もいないから、いいですよ」と言った。
スマホの画面には勤務先ではなく、知らない電話番号が掲示されていた。
会話ボタンを押し、警戒しながら「もしもし」と言うと、女の声がする。
「高村君、涼子よ、覚えてるでしょ。夫からあなたの携帯番号を聞いたの」
電話の相手は医学部同級生の柏崎涼子であった。彼女の夫は、以前私と一緒に働いていた安西啓介という精神科医である。涼子は安西の実家の病院で内科医をしている。
「涼子先生が電話をくれるなんて、めずらしいね。安西先生とは都内の学会で会ったよ」
「やっぱり、言っておいたほうがよいと思って。ねえ、麻里のこと覚えているでしょ」
麻里......もうずっと心の奥に置いていた名前を諒子は平然と言い放った。
「麻里なんて女のことなど覚えてないね」
「酔ってるの?相変わらずね」
ミルク色の牡蠣が目の前で輝いている。ワイングラスを持ち上げ、クルリクルリと手で回しながら、スマホを切っておけば良かったと後悔する。
「で、こんな時分に何なんだよ」
「麻里、一年前から膵がんなの。彼女とは卒業以来会ってなかったけれど、この前、彼女から連絡もらったのよ。今、彼女とメール交換してる」
「だから、なんだってんだよ。もう、昔のことだし、関係ないだろ」
「それは、そうなんだけど。それはそうと、今でも高村君は絵とかやってる。学生時代に麻里と一緒に絵を描いていたじゃない」
「絵なんかもう三十年もやってねえよ。麻里のことなんて覚えてないし、麻里だって家族がいるだろうよ、こんな時分に、いったい何が言いたいんだ!」
理事長からの電話ではないのは幸いだったが、面倒な内容に、不快な気分がわき上がってきた。
「麻里、死期を悟ってから、高村君のことをずいぶんメールに書いてくるのよ」
死期と言う言葉で私は少し冷静になった。
「見舞いには行けないよ。ここから金沢じゃ半日がかりだ」
「それはいいの。とにかく読んであげてよ。麻里のメールをそっちに転送してもいいわよね......」
「麻里の了解は、とってあるのかよ」
「一昨日、金沢まで見舞いに行ってきた。彼女おそらく、あと数週で亡くなると思う。彼女が高村君に転送して欲しいと言ったのよ......」
「麻里のメールをまとめて今から送るからメールアドレスを教えてよ」
「ご自由にどうぞ、読むかわからんけどね」
「飲み過ぎないようにしてよ。夫もあなたのアルコールを心配してたわ」
「そりゃ光栄なことだ。ちなみにメールは、○○@gmail.com」
「じゃあ、すぐ転送するわね」
私は三杯目のワインをグラスに注いで飲む。にんじんスティックに小皿にのったマヨネーズを絡めて、兎のようにカリカリと食べる。そして、もう一度、ワインを飲む。