7.思い出

2018年01月04日

件名:高村君その二

日時:○○年8月5日

 そっかあ、やっぱり結婚してたんだ。そりゃそうだよね。じゃあ、メール出せないね。でも、地元に戻って病院に勤めているのを聞いて少し安心した。私が小児科で彼が精神科という約束だけは実現したね。私ね、小児科だったけど、結構、お母さんや、時々、お父さんの会社の悩みも聞いてあげてたの。少し、精神科の勉強もしたしね。高村君の影響なんだと思ってる。父が亡くなって家族が誰もいなくなって、名前をファミリー・クリニックにしたの。クリニックの患者さん、みんな私の家族と思って仕事してたんだ。

 あーあ、彼は今はきっと、お母さんと一緒に住んでいて、奥さんや子どもがいて、きっと幸せにしてるんだろうなあ。でも正直、悔しい。海が見える大学、懐かしい。でも、思い出す場所は教室や病院じゃないんだよ。涼子は知らないだろうけど、グランドの裏のプレハブの二階にある部室。あそこから遠くに見えた相模湾、綺麗だった。私、海の見える故郷で育ったからね。海をどこかに求めていた。 

 あの頃、私は淋しかったんだ。きっと高村君も淋しかったんだよ。私、運動部の学生の声が聞こえる部室で夜になるまで絵を描いていた。


 「いつも淋しい目をしてる」と麻里は言った。私の淋しい心を麻里は見透かしている。私は麻里のやわらかい膝に自分の頭をのせる。麻里は子どもの頭をなぜるように私の髪の毛をなぜる。「淋しいんだよね」と麻里はつぶやく。

 私達2人はいつも一緒だった。私は医学部に少し馴染んで、友達も増えた。軽音部に入ってバンド活動も並行して始めた。しかし、麻里は、少しも変わらない。講義が終わるといつも部室で絵を描いていた。

 麻里は子どもが好きだった。ぬいぐるみ病院というサークルにも入り、近くの児童養護施設や保育所のボランティアに出かけたりしていた。母親のいなかった麻里は、小児科になると言い、みんなの家族になってあげるのと、夢を語った。

 6年生の春、麻里から「生理が来ない」と打ち明けられ、二人で隣駅の産婦人科に行った。もしも妊娠していたら産めばよいと思った。私達はもう6年も一緒にいたし、私も麻里も大学に残って研修医をやり、私は結婚するものだと確信していたからだ。

「どうだった」「どう思う」「どうなんだよ」「外れ」「よかった」でも、あの時の麻里の淋しそうな顔は今でも心に残っている。

 卒業が近くなった時、進路決定書類を二人で書いた。麻里は大学病院の小児科、私は精神科を希望し、良い医者になろうと誓い合った。

 卒業式の謝恩会が横浜の高級ホテルで行われた。

 田舎から出てきた貧相な装いの母は、麻里のことは全く知らない。母はうつ病で私が高校時代に二回入院していた。それも私に精神科を選択させた理由の一つだ。私は母が傷つくことを恐れたし、貧相な母には、麻里でさえ、会わせたくはなかった。麻里のことは隠し通した。麻里もそうだ、父が傷つくことを恐れ、私のことは隠していた。足の悪い母は自分で裁縫してきた服を着て、周囲の派手な親から好奇な視線を向けられている。不思議なことに麻里が母を精神科の岩野教授のもとに連れていった。母が傍にいた彼女に聞いたのであろう。背の高い俳優のような風貌の岩野教授の前で、小さな母は頭を下げていた。私は少し離れてそれを見ていた。

 故郷に戻る電車の中で母が「優しい子がいたがね、ああいう子は育ちがいんだよ」と言った。それでも、私は麻里のことを母に言えなかった。

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